創世記リバイバル 3



(どう見ても、そんなに残滓(カス)があるようには見えないんだよねぇ……)
 心なしか目を細めた皓に気づいた様子もなく、理音は未だ訝しげに皓を見ている。
 隙は、ない。
 厄介だと、思う。敵に回したくない類の少女だ。そう、少女であることを活かしている、武器として。よく言う「涙は女の武器」と似たようなものなのかもしれない。少女であることで、彼女の隙はなくなる。
 理音に伸ばしかけた腕を引っ込めて、皓は曖昧に笑う。
「……なんなんですか、さっきから」
 理音が口を尖らせる。血を拭き取った左手は、手刀の形に構えられていた。無意識にしろ、物騒だと皓は思う。
 左手に気づかない者たちが、倒れていくのだろう。少女に魅入られたまま。
「うん? 理音ちゃんがかわいいなぁ、と思って」
「…………前々から思ってたんですけど、誤魔化すの、下手ですよね?」
「え? そう?」
 そうですよ、と呆れた様子で答えを返し、理音は立ち上がる。どうやらもう、回復してしまったらしかった。よろけることもなく、会釈をする。ありがとうございました、の形に口を動かして、そのくせ声は出したくないらしい。
 嫌われちゃったかな、とうそぶいて部屋の入口を空ける。するりと隣をすり抜けて、理音は部屋から出て行った。
 開け放した障子の向こうを見れば、日は暮れてしまったようだった。太陽の名残を山の端に漂わせ、空は薄闇に包まれている。
 玄関の戸の閉まる音がしてから少しして、障子の前を、少女が過る。
「気をつけてね」
 部屋の中から声をかけると、振り向いて、理音は顰め面をした。

 おかされた。

 半ば閉ざしていた意識に干渉してくる何者かの気配を感じて、皓は手を止める。ゆるやかに波打つ気配は、ざらりとした感触をまとわりつかせて、皓から離れていく。残されたのは、不快感と、
(あやかし)……?)
 まだ見ぬ、歪められた存在の予感。
 パンドラの箱。昔々、あるところに存在した『開けてはならない箱』のことだ。とある人が好奇心からその箱を開けると、あらゆる罪悪・災禍が抜け出て、世界は不幸に見舞われるようになり、希望だけが箱の底に残ったという。
 そのとき溢れた罪悪・災禍たちが形を為したものを『妖』と呼ぶ。
 半妖たちは、彼らに蝕まれ、彼らを喰らう。そう、約束された。誰に? きっと神に。
 神って結構趣味が悪い。
 皓は思う。蝕まれるのは一瞬のことなのに、喰らうのにはとても手間がかかる。不公平だ。おまけに、半妖からは妖を『視』ることができない。『主』の力がなくては、半妖は無力なのだ。どうしようもなく。
 どこまで侵されたのだろうかと頭に手をやってみても、わかる筈もない。そろそろ沸騰していたお湯の火を止め、皓は包丁を取り出した。まな板には、熟したトマトがある。
 みずみずしい赤に、刃をあてる。銀の刃には、熟れた赤が映っていた。
 蠢く銀に、蝕まれながら。
「目を侵したのか」
 皓を、そして、世界を。
 赤を蝕む包丁をまな板の上に置いて、皓は胸に左手を当てた。
 届くだろうか。
 わからない。けれど、きっと届くはずだ。
 真名がなくとも、波動は同じだったのだから。
「古の約定(やくじょう)をもって召喚する。死は地に還り、生は地より出ずる。我は主により生かされ、主は我によってこの世界に繋がれる。我の名は、(スエ)。我が名を鎖として、我は呼ぶ。主、ヒトの名を理音。我を生かし、妖を滅する者。顕れよ、現れよ。季の主、理音!!」
 耳を打つのは、痛いほどの静寂。
 まな板の上に置いた包丁は、形を変えてきていた。

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