(失敗、したのか……)
喰らおうにも、主のない半妖は妖に害されるのみで、喰らうことはできそうにない。
逃げるか?
一瞬よぎった考えに、包丁を侵食する銀色が否やを唱える。皓を通して現れた所為か、蠢く銀を水銀のようだと思った皓に応えるように、妖は姿を変える。平面から立体へ。二次元から三次元へ。
変態。
早く、片をつけなければ。焦る皓をせせら笑うように、間抜けな音がする。
ピンポーン。
間抜けなインターフォンにおざなりな返事をする。夜になってから来るような友人はいない。どうせ勧誘か、そうでないなら悪戯だろう。
柄だけを残して蝕まれた包丁が、くねくねと姿を変える。
「グロテスクですね」
ぼそりと背後で呟かれた言葉と同時に、水銀もどきが消失し、淡く色づいた結晶が現れた。
ひどくゆっくりとしか動かない首を、背後に向ける。息を乱した様子も何もなく、先刻帰ったときと同じ服装のままの理音がいた。
「食べないんですか。先輩が食べないんなら売りたいんですが」
「……売れるんだ」
「売れますよ。そういう商売って成り立つんだそうです。食用だけじゃなくて」
伏せていた目を開けて、そこでやっと皓がなんとも微妙な表情を浮かべていることに気づいたのか、理音は戸惑った様子を見せる。
ふ、と口元をゆるめて、皓は問いかけた。
「どうしたの」
「忘れ物、してたんで」
「……そう」
「半妖って妖が天敵なんですか」
「天敵? どうだろう、半分は合ってると思うけど」
「半分ですか」
「そう、半分」
自嘲するように笑んで、皓は理音に背を向ける。
この背に刻まれた聖痕に答える聖痕を、理音は有していない。それでも、さきほどの召喚呪はどうやら無駄にはならなかったらしい。
一体、どうなっているのだろう。
今はもう、元に戻った包丁を水道水で洗い流して、布巾で拭く。棚にしまいながら、皓は理音に訊ねた。
「そいつ、食べちゃっていい?」
「ただいま」
当たり前のように誰もいない家に、当たり前のようにただいまと告げる。
兄の使っていたコップにじゃばじゃばと水を注ぎ、一気に飲み干した。家の中に人の気配がなくなってから、もうどれくらい経つだろう。兄がいなくなって、父は「仕事」を増やした。以前より血の臭いのするようになった父につられてか、それとも噂を聞いたからか、母も「仕事」に復帰した。訓練だろうが修行だろうが鍛錬だろうがそんなものは自分でどうにかしろ、と言われたのは、近所の公立高校に入学した頃。
別にそれを寂しいともかなしいとも思わない。
ただ、願うのは。
「お兄ちゃん……」
テーブルのパソコンが低くうなる。
電源を入れただろうか。入れたのかもしれない、いつものように。
無意識を疑うこともせず、理音はパソコンの前に座った。