創世記リバイバル 2



『理音』
 目を開くと兄がいた。
 記憶のままの背格好。
 嗚呼、これは夢。
 頬を涙が伝う。
『お兄ちゃん』
『起きよう。朝だ』
 柔らかく笑う兄は陽射しを背に理音を見下ろしていた。
 眠い目をこすりながら身体を起こし、理音はふわりと笑う。
『おはよう、お兄ちゃん』
『おはよう、理音――』
 いつものように兄に抱きつこうとして、やけに視界が安定しないことに気づいた。
 ぐらり、ぐらり。
 傾いだ視界の片隅、兄の腕が、理音に伸ばされ、伸ばされ、その、腕、は。
 理音を。
『大丈夫?』
 歪んだ笑み、と、赤い、赤い、それは。
 血。
「――――――……っ!!」
 耳を劈く叫びに目を覚ました理音は、見覚えのない景色を視界に収め、そうして飛び起きた。
 小綺麗に片付けられたその部屋の扉は、閉まっている。見たところ、鍵はかかっていないようだった。
 そろり、そろり。
 お世辞ではなく寝心地の良いベッドを抜け出し、理音はドアノブへ手を伸ばす。
 その矢先。
 前触れもなく、勢い良く開いた扉に飛びすさってベッドの上に逃げた理音の耳は、聞き慣れたテノールをたしかに捉えた。
「起きたんだね。よかった」
「佐倉先輩……」
 ふわりと笑う皓の名を、ただ呆然と理音は呼ぶ。
「それはヒトとしての僕の名だけど、真名じゃない」
 笑みを浮かべたまま答えた皓を、間の抜けた表情で理音は見上げる。
 最後に見たときは、たしかに制服だったような気がするのだが、皓は甚平と似たようなものを着ていた。どうぞ、と差し出されたマグカップを受け取ると、何やら良い香りが漂っていたことに気づく。
 敵とも味方とも知れない輩からの飲み物を警戒もせずに飲んでしまったとは……、と後悔することになるのだけれど、理音はそれを一口飲んだ。
「……美味しい」
「僕が淹れたんだから当たり前だよ」
「え、嘘っ!?」
「……危ないよ、理音ちゃん」
 驚きのあまり、理音が取り落としたマグカップは、けれど、けろりとした表情のまま、皓が持っていた。皓は動いてもいなかったが、マグカップの中身が零れた形跡もなかった。
 気を失う直前のように至近距離にいなくて良かったと安堵しながらも、そんな自分を叱咤して、そうして、理音は、きっ、と皓を睨みつけ……ようとした。
 へ、と見るからに拍子抜けしましたという表情をした理音を見て、皓はさらに目を細めて穏やかな笑みを浮かべる。
 猫みたい。
 ぼんやりと、理音は思った。
「さて」
 気分を切り換えるように、皓は呟く。
 途端、ふくれあがるヒトでないモノの気配に理音は背筋を寒気が這い上がっていくのを感じた。
 何これ……。さっきより、強い……――。
 険しい表情をしていたのだろうか。そんなに警戒しないで、と皓が苦笑して言った。
「理音ちゃん、何から知りたい?」
 ドアのすぐ横に立ったまま、皓が訊ねる。
 滲み出る年長者の余裕は彼が学校では普段全く見せないものだったけれど、今の彼がきっと本来の彼なのだろうとおぼろげに理解した。
「……なんで私は気を失ってたんですか?」
「…………知らずにやってたの?」
「何がですか」
 途端に額に手をやり困った様子の皓に訊ねると、ちら、とこちらを上目遣いで見やり、それから、誤魔化すように、へらっと笑った。
 困っているのかもしれない。それでも知りたい。
 このときほど考えていることが顔に出やすい性分を得だと思ったことはない。諦めたように訥々と皓は語り始めた。
「はるか昔のこと。神は、孤独を持て余していた。あまりにも退屈していたから、どろどろの土を捏ねて人形を作った。魂をほんの少し分け与えて作ったそいつは、神と自分が全く違う生き物だと気づいた。
『この世界には、私と貴方しかいないんですね』
 そいつがぽつりと呟いた言葉にうむ、と頷くと、神はもう一体人形を作った。退屈凌ぎの一環でしかなかったんだろうね。人形たちは、そのうち神と訣別した。
 人形たちはまず、住む土地を探した。便宜上人形って呼んでるだけで、そいつらはヒトだったから、当然性欲だってある。いろんなとこを回ってるうちに家族は増えた。
 だけど、やっと住む土地を見つけたときにはもう、手遅れだった。生まれてくる子供たちの男女比は一:一ぴったしだったけど、どちらの性も持たない子供たちが、全体の三割弱はいた。最初の人形が神のところに出向くと、『私を退屈にさせた罰だ』と神はにこやかに言ったらしい。どちらの性も持たない子供たち――彼らは只人より遅いときの流れの中で生きる。当然、疎まれた。だけど、只人のうちのごく限られた人々は、彼らを使役し、彼らと交わり、彼らと共に生きるようになった。現代ではそれは、限られた人々だけ。
 (あやかし)の類を退治するには彼らみたく頑丈な存在って便利らしいね」
 にこりと笑って皓は壁から身を離した。
 説明になっていないじゃないか、と睨むと、まぁまぁ、となだめられた。
 なんだか不本意だ。
「彼らはヒトと妖の中間に位置するんだよ。ヒトでもなく、妖でもなく。だから食事の方法も独特なんだ。勿論ヒトと同じものを食べても生きていける。だけどね、もっと効果的な方法が、ちゃんとある。……知りたい?」
「当たり前のことをわざわざ訊かないでください!!」
 首を傾げて訊ねる皓に、半ば怒鳴るように理音は答えた。
「簡単だよ。『(あるじ)』に傷つけてもらえばいい。つまり彼らにとっては『傷つけられる』と『食事する』はほぼ同義なんだよね」
 本来は「傷つける」と「キスする」がほぼ同義だったらしいけど。
 さらりと皓が言い放った言葉に、理音は眩暈を覚えた。
 あたしたちは性的倒錯者の集団ですか。
「そこ?」
 ぼやいていると呆れたように問い掛けられ、半ば反射的に理音は頷いた。
「理音ちゃんらしいというかなんというか……。
 僕のてのひらを傷つけてほしいなぁ、なんて僕は思ってるわけなんだけど?」
 にこやかに疑問文で要求を突き付けた皓は、どこか、
「……焦ってるんですか?」
「そうかもしれない」
 笑みを絶やさず頷いた皓に小さく嘆息してみせ、理音は立ち上がった。
 差し出されたてのひらからは、先ほどより強い魂の鼓動を感じる。気配が強まるのも無理はない、と一人で納得し、理音はべしっとその手をひっぱたいた。
「あたしが気を失った理由の説明にはなりませんよね、それは」
「今のでわかったんじゃない?」
 間髪入れずに帰って来た答えに、う、と理音は怯む。
 立っていられないのだ。
 さらに気配を強めた皓を見上げると、人の悪い笑みを浮かべていた。
「どういう意味ですか」
「そのまんまの意味だよ」
 口の端を歪めて皓は笑う。
 先ほどまでの話から考えろ、ということなのだろうけれど、わからない。もしも自分が「彼ら」と関わる一握りの人間達の末裔だったとして、皓の「主」だとする。
 けれど、
「そんな話、一度もきいたことない……」
 両親からは勿論、兄からでさえ。
 首を傾げる理音を、皓はかわいいねぇ、と茶化す。佐倉先輩への憧れが崩されるとの理音の嘆きには気づかず、皓は言い忘れてたんだけどね、と前置きした。
「『彼ら』と『主』は生まれたときから誰が自分と対になる人なのか、決まってるそうだよ。運命を感じるよね」
 それは本当のことだった。けれど、と皓はひとりごちる。
 「彼ら」――否、自分たちは生まれたときから既に真名を与えられている。この世に出づるとき、始めて認識するものは真名だ。真名は、「主」の名を内に秘めた、命と同等か、それ以上に大切なものだ。
 「主」となる者にも、真名はある。聖痕(スティグマ)として身に刻まれて、彼らは生まれる。しかし、理音は。
 聖痕が、ない――。
 けれどたしかに彼女は自分と同じ波動を持っている。ヒトに「彼ら」――半妖と全く同じ波動を持つ者がいるならば、それは、「主」であるのではなかったのか……?
「佐倉先輩?」
 急に黙り込んでしまったからか、理音が訝しんでいる。
 こんなことでは駄目だ、と自らを叱咤し、ごく自然な笑みを心掛けて皓は言った。
「なんでもないよ」
「ホントですか?」
「うん。ちょっと食べ過ぎちゃったかなぁって」
 全くの嘘ではないが、かといってまるきり真実でもない。灰色の嘘とでも言うのだろうか。
 理音の魂滓(カス)を摂取しすぎたような気がするのは本当のことだけれど、通常の半妖ならば主の魂滓を貪り尽くしたときでもなければ食べ過ぎの状態にはなれないのだという。
 一般に、波動の強さは魂滓の量に比例すると言われている。しかし、理音は。

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