創世記リバイバル 1



「……あれ、包帯」
 どうしたのかと問い掛ける瞳にただ苦笑いを返し、理音(りお)は誤魔化した。――もっとも、誤魔化しと呼ぶには稚拙だったのだけれど。
 (あきら)は知っている。
 ひどく眠そうにしていた後輩が、けれどその実かなり幸せそうな表情を浮かべていたことを。彼の左手の小指にも、やはり包帯が巻かれていたことを。
「怪我でもしたの?」
「――……はい、まぁ、そんなところです」
河内(こうち)も同じところに包帯巻いてたんだけど、おまじないだ、って言ってたんだよね。理音ちゃんのもおまじないなの?」
 首を傾げて訊ねてみれば、理音はただ黙りこくったまま、何も言わない。一体何してんだか、とは思ったが、皓は口に出さなかった。
 くる、と背を向けると、くい、と裾を引っ張られる。
「何?」
 問うた声は、ひどく冷たく聞こえた。
 なのに。
「あのっ、佐倉先輩っ」
 呼び止められて振り向けば、頬を紅潮させた理音が、いくらか不安げに皓を見ていた。
 河内と付き合っているくせに。
 胸をかすめた黒い感情に、自嘲気味の笑みを浮かべた。
「先輩のこ――」
「乃木!!」
 名字を呼ばれ、理音は皓にすみません、と謝る。構わないと答え、皓はその場を後にした。
「あのっ、河内くんっ」
「うん?」
 ひどく嬉しそうな表情を浮かべて前を行く河内を呼び止めると、理音は左手を顔の前にもってきた。振り向いた先、ちょうど目線にある光景に河内はごくりと唾を飲む。
 左手小指に巻いた包帯を口で挟み、くるくると掌をかえして理音はほどいていた。子供のような瞳で、けれど、それはなまめかしいシーンとして河内に認識されていた。
 ぽたり。
 ぽたり。
 床に広がるソレを見ることもなく、ただぼんやりと、河内は理音の口許を眺めている。
「いつも困ってたの。『おまじない』教えてくれてありがとう。助かりました」
 艶然とほほ笑み、理音は言う。ゆらゆらと、炎とも違う、けれど、蜃気楼とも違う何かを身にまとって。
 つい、と伸ばされた指先が、河内を指し示す。
「でも、サヨナラ。依頼だから仕方ないんだ、ごめんね」
 にこりと笑い、理音は河内の手前の空間を指先で薙いだ。血を頬に浴びて、理音は小さく呟く。
 人間と共生してる貴方たちを何とも思わず殺せるくらいには残酷なのに、莫迦みたい。優しいひと、だなんて。
 こぼれる涙を拭うこともなく、ただ、理音は、そこにいた。
 はじめにソレに気付いたのは、いつだったろう。
 視界を過ぎる異形に思わず振り向くようになったのは、いつからだったろう。
 噛み切る指先、滴る血。
 それらが『彼ら』に対する武器になると教えてくれたのは、たしか兄だった。
 訊けば、代々の家業だという話だった。父も母も兄もそんな素振りは全くと言って良い程見せなかったのに、不思議とすんなりと納得できる事柄だった。
『いいかい、理音。僕達がするのは封印なんかじゃない。――抹殺だ』
 こわいかお。
 たしかそう言った気がする。苦笑いを浮かべる兄に、小さく笑って誤魔化したけれど、とてもこわいと思ったあの感覚を、今でも覚えている。
 正直、あれに比べれば異形のモノたちなどなにほどのこともない。
 けれど、その兄も任務の途中に行方がわからなくなって、そのままそろそろ七年になる。死亡宣告を出すことを本気で三人で相談し始めた矢先、妙な噂が耳に入った。曰く、
「お兄ちゃんが、生きてる……」
 どうやら両親に言わせると『孵化』していないらしい理音の能力なら、或いは。
 或いは、兄を探すことができるかもしれない。
 今から2年前の春のことだった。
 だって、そうさ。そうだとしても、おかしくなんて、なかった。それに、そうだったなら、納得がいく。
 皓は息を吐いた。
 見下ろす先に、二人の人影。
 命のない、ただの一人の少年と、彼を屠った少女。
 あぁ、そうだ。僕は、何を忘れていたのだろう。
 彼女の一挙手一投足に一喜一憂していた自分を、低く、哂った。
 ゆらりと背から立ち昇る、炎とも似つかない、それが纏わりついた左手を一度振り、彼はもう一度、低く哂った。光の軌跡が、宙に文字を描く。
「ねぇ、理音。僕を――」
 僕を、支配できる?
 所詮遣い魔として生まれた自分のことを、彼女は知っているのだろうか。いや、知らないのだろう。
 けれど未分化の彼女なら、或いは。
 或いは、以前の彼の主よりはるかに彼を遣いこなすのやもしれない。
「誰っ!?」
 唐突に振り向いて自分を見やる理音に、皓は笑ってみせた。
 驚きのあまり、開いた口が塞がらないといった様子の理音は、ただ、呆然と彼を見る。
「……佐倉先輩?」
 ヒトとしての名を呼ばれ、皓は艶やかに笑う。
「見えるんでしょう? 理音ちゃん。僕の、魂が」
 ヒトでない僕の魂が。だから、振り向いたんでしょう?
 蒼とも白とも言えるような、炎とも似つかないそれを振りかざし、皓はただ、唇をゆがめた。
 知らない。こんな先輩、知らない。
 逃げ出したい気持ちと、義務感とに板挟みにされて、理音はゆるゆると頭を振る。
「……嘘」
「嘘じゃない」
 微笑む皓の顔を、正視することができなかった。
 弱ったなぁ、と言いながら、皓が音も立てずに理音の隣に降る。
 皓が理音の額にくちづけたのと、ほぼ同じ瞬間、鈍い音が、した。
「……やめて……」
「やめないよ」
 だって僕は理音ちゃんのこと好きだし。
 にこりと笑った皓の胸から、じわり、じわり。
 血、が。
「やめて!!」
 叫ぶ理音の左手を、滴る、赤い、赤い。
 血。
 にこりと笑った皓の顔が、どこかしら、懐かしく思えた。
 傾いだ視界の片隅、ちらりと垣間見た皓が消えてしまいそうに思えて、手を伸ばした。
 途切れた意識の手前、呼ばう声は誰のものだったか。

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