I wanna bite at the nape of yours!



 初めて出会ったのはいつだったかと訊ねたら、視線で射殺されそうになった。

1


「仕方ないだろ中嶋! 大体俺の記憶力が悪いのはよく知ってるだろお前なら」
「えぇもちろん、よくよく知ってますとも」
 あっさり肯定し、千尋は神坂をねめつけた。
 どの部も新入部員獲得に忙しいこの時期、サッカー部とて例外ではなかった。毎日神坂に付き合って遅くまで部室に居残っている所為か、最近は千尋も帰りが遅くなることが多い。
 今日も今日とていつものように黙々と日誌にペンを走らせていると、そういえば、とふと神坂が声をあげたのだ。
 曰く、
『俺が中嶋に初めて会ったのっていつだっけ』
 と。
 妙なところで器用な千尋は、神坂を睨みながら、にこりと笑う。

「大嘘つき」

「それは」
「違うの?」
 刺々しく反駁する千尋を眼鏡越しに見つめ、神坂は嘆息する。
 ぱたり、と日誌に落ちた雫に、二人とも、ただ、黙ったまま。
 これも「裏切り」に入るのだろうか。ふと首をもたげた疑問を、神坂は肯定も否定もしなかった。



  覚えているのは満開の桜と、そのすぐ傍らに立っていた中性的な顔立ちをした、少女。ひらひらと風に舞うスカートを押さえることもせず、ずっとそこに立っていた彼女が気になった。
 それだけだったのだ。最初は。



 「あたしがどう思ったかなんて知りもしないくせにひとりで勝手に決め付けたりしてるし。ずるいよ神坂」
 沈み込んでいた意識を引き戻す、震えた声。
 書きかけの部活ノートから顔を上げて、神坂は千尋を見た。シャーペンをペンケースにしまって、のろのろと帰り支度を始めている。
 後ろの窓から見える窓は、疾うに闇に塗りつぶされていた。
 広げられたままの日誌に新たな染みはできていない。
 けれども、
「莫迦みたい、あたし」
 震える声が、神坂を引き寄せる。
 眼鏡を外して立ち上がると、椅子が倒れてやけに大きな音が響いた。怯えたように大きく一度だけ震えた肩に、ひどく申し訳ない気持ちになる。
 古びてシートもボロボロのパイプ椅子に座ったまま鞄にペンケースと日誌を詰め込む千尋の肩を軽く掴む。
 予想通り振り向いた千尋に、神坂は俯いたまま。
「中嶋。俺、たしかに覚えてない。初めて会ったのがいつなのか。けど、初めて中嶋を見たときのことならちゃんと覚えてる。
 だって俺、お前に一目惚れしたんだ、あのとき」
 それだけじゃ、駄目なのかよ。
 足元に跪いた神坂が、問う。
 顔を上げた神坂に、千尋は否とも是とも言わなかった。



 立ち上がる瞬間、椅子が倒れる音がやけに大きくきこえた。

2


「……きらい」
 呟いた言葉に、神坂がぴくり、と眉をあげる。
 疾うに机の方に向き直っていた千尋は、机に突っ伏したまま、言葉を続ける。
 今、何時なのだろう。一人で帰るのは怖いけれど。
「大嫌い。なんであたしなの。あんたのことなんか、全ぜ」
「だって好きなんだから仕方ないだろうが」
 千尋の言葉を遮って、神坂は言う。
 ほっとしている、のだろうか。わからない。
 わからない自分を、全てを、神坂のせいにしてしまいたかった。けれど、それは嫌だと心のどこかが告げていて。
「……帰る」
 ばいばい神坂、と席を立つ瞬間、椅子が倒れた。
 ガタン、と。
 逃げるように荷物を抱えて千尋は部室を出る。
 筈だった。
 くい、と引っ張られた袖に、不承不承立ち止まる。
「送るからちょっと待ってろ」
 離れていく足音を背中に聞きながら、逃げないと確信されていることを、不快に感じた。
 帰り支度ができたのか、神坂が行こうと促す。動かない千尋を不審に思ったのか、神坂はいくらか心細げに中嶋、と呼んだ。
「……先、帰って」
 声が震えてしまっていることが、どうか、バレませんように。
 本当はずっと知っていた。……ただ、目を逸らしていただけ。
 「仲間」でいたかった。
「中嶋?」
 訝しげに訊ねる神坂に、ただ千尋は先に帰れと繰り返す。
「阿呆か」
 疲れたような、呆れたような、そんな溜め息のあとに、神坂は言う。
「俺が先に帰ったら今まで居残ってた意味がないだろうが」
「……え?」
 顔を上げた千尋に、神坂は手を差し伸べた。
「帰るんだろ?」
「……うん」
 頷いて、千尋は歩き出す。釈然としないものを感じながら、それを誤魔化して。

「千尋ちゃん、千尋ちゃん。昨日神坂くんと手繋いで寮まで送ってもらったって本当?」
「はぁっ!?」
 広丘学園中等部は、他校に比べて部活動は勿論、生徒会活動も盛んだ。基本的に主な役員は毎日一度は生徒会室に集まっている。だからいつものように足を踏み入れた生徒会室で桜に尋ねられ、千尋は素頓狂な声を上げた。
 まさか、と猛然と否定する千尋の横からそうそう、と相槌を打つ声がした。
「俺は手繋ぎたかったのに中嶋が拒否るから手繋げなかったんだよ」
 言わずと知れた、神坂の声である。
 そうなんだ、とにたにた笑う桜に、千尋はげんなりとして溜め息をついた。
 神坂の言っていることは事実で、だから困るのだ。否定できなくて。
 こういう諦めが簡単につけられるのが大人なのだとしたら、大人になどなりたくもない。
 本気で千尋はそう思った。



『あ、中嶋ー?』

3


 時刻は午前9時。空は快晴。
 まさに「清々しい朝」だ。――いや、「だった」。
 寮の電話に向かって歩く千尋は、どことなく不機嫌そうな表情をしている。
 何週間振りかのオフだというのに朝早くから電話を掛けてきた傍迷惑な輩は誰だろうかと寮の電話をとった矢先、いくらか間延びした声が耳に届いた。
「森岡? どうしたの。今日久々にオフだから寝溜めするとか言ってなかったっけ」
『うん。だけど気が変わったから。という訳で中嶋、今からフットサル行かない?』
「今から?」
 オフにもかかわらず、ジャージを着ている自分が心底恨めしかった。……別に、デートの約束をするような間柄の者はいないし、友人たちがオフでないため遊びに行く約束もできなかったから、ある意味問題ないと言えないこともない。
 が。
(久々のオフだし部屋の片付けしようかと思ってたんだけどなぁ……)
 そう。日を追うごとに汚くなっていく千尋のスペースを、一度きちんと片付けるべきだと、いや、むしろきちんと片付けなければならないとルームメイトに言われてしまっている。
 はっきり言って鬼の度合いは監督より彼女の方が高い。怒らせたらどうなるかは2年間でしっかり学んでしまった。
「ちょっと今日は――」
 無理、と続けようとした千尋の耳に、森岡はさらに追い討ちを掛ける。
 即ち、
『あ!! ちなみにメンバーは俺と宗田と小野サン。と、神坂』
 通りすがりの名も知らぬ少女が、ひぃっ、と声を上げて後退る。
 失礼な。……それとも、そんなに恐ろしい形相をしているのだろうか。
 ぺたぺたと顔――主に表情筋のあたり――を触りながら、ごめんね、と電話の向こうの相手に千尋は謝る。
「今日はやめとく。また今度誘ってよ」
『また神坂と喧嘩か? 厭きないんだな、お前ら』
 揶揄と呆れとを十二分に含んだ声に、「また」ではなく延々と続けているだけなのだと答えると、電話の向こうがしん、となった。
 潮時かな、と口を開きかけた千尋の耳に、森岡は一言だけ残してまた明日、と電話を切った。
 ツー、ツー、と鳴るばかりの受話器を耳に宛てたまま、桜に声を掛けられるまで、千尋はそこに立ち尽くしていた。



『愛されてんだよ、お前。……ま、良いや。じゃぁな』

4


 寮の自室の片付けがそんなに大変でないのはきっと、私物の数が著しく制限されるからに違いない。これが実家の自室なら、古雑誌だけでなく古新聞やほとんどがらくた状態の雑多な物によってゴミの山をいくつも作ることができただろう。
 だが、生憎と言おうか不幸中の幸いと言おうか、此処は寮だ。授業で配られたプリント類とスポーツ雑誌のバックナンバー――もちろんサッカーの記事だけは保存するが――以外に捨てられる物が見つからない。片付けは意外と早く終わった。
(暇だなぁ……。樋口は勉強中っぽいし邪魔できないししたくないし)
 鬼の同室者でもあり、合唱部々長でもある樋口かおるは2週間後の1学期中間考査に向けて、さっさと試験勉強を始めている。悠長に眺めていられる身分ではないが、千尋はそこまでする気にもなれず、取り敢えずアイロンでもかけるか、と腰を浮かす。
 全寮制の広丘学園には、各寮毎、基本的には食堂の隣に洗濯乾燥機が完備されている。特に数が決まっている訳ではないが、女子寮での目安としては5部屋毎に1つ、らしい。ちなみにアイロンとアイロン台は各部屋に1つずつある。
 大体一度につき3日分くらいを洗濯する千尋は、昨夜利用して、制服のブラウスとそれ以外とに分けたきり、そのままにしていた。大会直前等で忙しいときはブラウスにアイロンを掛けることすらしない――というかできないのだが、やはりアイロンを掛けたブラウスを着た方が気持ちいい。
 共用スペースでアイロンを掛け始めた千尋に、椅子ごとかおるは振り向いた。
「千尋。それ、使い終わったら教えてね。私も使いたいから」
「ん。でももうこれで最後の1枚だよ」
「本当? じゃぁ、ちょっと早いけど休憩しようかしら」
「一体いつまで勉強するつもり……」
「夕飯迄」
 げんなりとした様子で訊ねた千尋に、かおるはしれっと答え、からからと笑った。

「早いな、中嶋」
「あぁ、森岡か。おはよう」
「……はよ。昨日、お前も来れば良かったのに。小野サンもいたんだし」
 自分から話し掛けたにもかかわらず虚をつかれたのか、ほんの少しの沈黙を挟んで森岡は千尋に言う。
 「小野サン」とはサッカー部のコーチのことだ。生徒に愛される――というか無条件に懐かれる彼は、オフがあるたびにサッカー部の面々をフットサルに誘う。なんでも彼の「運命の出会い」とやらがフットサル場での試合の最中にあったかららしい。よくよく見れば彼の左手薬指には銀の指輪が着いているが気付かない女子の中には彼に思慕を寄せていた者もいたとか。
「別に、そういう意味で好きな訳じゃないし」
「『初恋の人』なんだろ?」
「そうだけど」
 意地悪く笑う森岡に、憮然として千尋は答えた。
 夏の烈しさを持ち始めた陽射しが次第に明るく、強くなっていく。
 そろそろ朝練が始まる時間だ。自主練だからと参加しない者もいるけれど、記憶が正しければ森岡は参加するはずだった。
 行かなくて良いのかと訊ねると、中嶋も行こう、と手を差し出された。そうだね、と頷いて森岡を見やると、彼はにやりと笑って千尋に問う。
「なぁ、今の、俺じゃなくて神坂だったらどうしてた?」
 絶句した千尋に答えなどこれっぽっちも求めてはいない森岡は、朝練する時間がなくなるから、と更衣室に走っていった。
 つまり彼は何が言いたかったのだろうかとうまく働かない頭で考える千尋の耳に、昨日の森岡の言葉が反響していた。



「あ、そういやさ、中嶋」
「何」
「神坂がコクラレタらしいぜ」
 はじまりは、いつも通りの朝練習だった。

5


 空は快晴。食堂の朝ご飯は相変わらず美味。体調だって、絶好調とは言わないまでも、それなりに良い。珍しくすっきりとした目覚めだったから、あのぼんやりとした不快感もない。
 それなのに。
 千尋は既に本日二桁目となる盛大な溜め息を吐いた。
 どうやら自分は今、憂鬱な気分になっているらしいと、そこまで自己分析して何かがおかしいと心の片隅、訳知り顔のフクロウが鳴く。何かがおかしいも何もクソもミソもない。憂鬱になるような要素は一つもないのだ。
 空は快晴。食堂の朝ご飯は相変わらず美味。体調だって、絶好調とは言わないまでも、それなりに良い。珍しくすっきりとした目覚めだったから、あのぼんやりとした不快感もない。しかも神坂は、誰だか知らないがきっと、相当な物好きの女子に告白されたらしい。
 何かにつけて莫迦の一つ覚えの如く「好きだ」と連発されるあの苦渋の日々から解放されるのだ。嗚呼、なんと言う快感。
 そのくせなんだかもやもやしている。
(おかしいなぁ……。あ、まさかアレがきたとか?)
 女子につきものの、毎月恒例の「アレ」を思い浮かべ、千尋はまた溜め息を吐く。
 くる筈がない。いくら周期が短いからといって、一週間でまた訪れるなど、千尋にはまずありえないことだった。
「ていうかさ、千尋」
 制服のブラウスに袖を通しながら間延びした声で返事をすると、呆れたような不機嫌そうなかおるの声が耳朶を叩く。
「にやけるかしかめ面をするか、どっちかにしない? ちょっと気色悪いよ」



 美しい日本語を使うのがポリシーだと公言して憚らない友人に、正確にくっきりと「気色悪い」と発音されてしまったのは、実はかなりショックだったらしい。
普段ならお茶の子さいさいで簡単に解けてしまうような数学の問題を解くのに延々と唸ってみたり、食堂でお盆を盛大にひっくり返してみたり。どうやら絶不調に陥ってしまったらしかった。
 そして、ついさっき。とうとうやってしまった。
 倒れたボトルから流れる水が、広がっていく。いくつかのボトルの口には土がついてしまった。しかも、間の悪いことに、
「……何やってんの、お前」
 神坂に、見られてしまった。
 急いで片付けなければ、と思うのだけれど、思うように身体が動かない。まるで全身で等身大の鉛を持ち上げようとしているみたいだ。屈んだ足と胴の間、腕の中から拾い上げたボトルが次々と落ちていく。蓋ばかりが入った籠に当たって、少し間抜けなプラスチックの音がした。
 慌てて拾い上げた分だけ水道の脇に置いて、転がったボトルを拾いに行こうとすると、どこか怒ったような様子の神坂が目の前にいた。ずい、と腕を突き出される。圧されたように一歩下がると、転がっていったボトルがその手の中にあるのが見えた。
「ぁ、ありがとう」
 言いながらボトルに伸ばした腕に、ボトルではない、温もりが触れる。けれど今日は少し冷たいようなそれに、逸らしていた視線をのろのろと上げると、神坂と目が合った。
 いたたまれなくなって、また目を逸らす。そこここに泥のついたオレンジと黒のユニフォームを見ながら、以前かおるに言われたことを思い出した。あのときはたしか、嘘をついていたのだっけ。
 たまたま目が合ったときに、こちらから先に目を逸らしたら、苦笑いを浮かべたかおるに言われたのだ。

『先に目を逸らしたら、疚しいことがありますって言ってるのと同じことだよ、千尋』

 疚しいことは何もない。けれど、腕を掴むこの手に過剰な反応を示す原因を、本当は知っている。
「……離してよ」
「お前、熱あるだろ。顔赤い」
「無いよ、そんなの」
「だってお前、今日朝からずっと調子悪そうだったし」
「悪くないし」
「悪かったろ」
 視界を神坂の剥き出しの腕が遮る。目立たないような、擦り傷がたくさんある。見慣れてはいるけれど、見ているとどうしようもない気持ちになる。
 少し俯いた額に、ひやりとした神坂の手が触れた。
「やっぱり熱い。もうお前帰っとけ。監督には言っとくし、ボトルも持ってっとくから」
 弾かれたように神坂の顔を見ると、ダンベルのようにボトルを持ち上げて、もう先ほどの怒ったような表情はしていなかった。呆れたような、いつもの表情をしていた。



『あら、やっぱり熱があったの』
『あのねぇ……』

6


『なんかおかしいなぁ、とは思ったのよね。ほら、千尋ってあんな百面相したりとかとは無縁だったから。神坂くんが告白されたのがそんなにショックだったのかな、とも思ったんだけどね、なんか違うような気もしたし』
 云々。
 昨日のかおるとの会話を思い出すと頭が痛い。熱に浮かされた頭でどうして、と思ってしまうほど鮮明に覚えているから尚更始末が悪い。
 あることないこと言われた記憶と、言ってはいけないことを口走ってしまった記憶と。前者だけならまだ良かったのに、とベッドの中、千尋は思う。
 中等部の女子寮は二人一部屋で、二段ベッドが据えつけられている。かおるとのジャンケンに負けて上の段を使っている千尋のベッドの上からは、丁度校庭が見える。窓が同じ高さにあるせいだ。
 おそらく気を遣って起こさずに行ってしまったのだろう、かおるの姿は室内になかった。壁につけた時計をを見ようと身体を起こすと、校庭の真ん中、見慣れた背中を見つけてしまった。どうやらかおるはカーテンだけ開けてから行ってしまったらしい。昨日も着ていた泥だらけの背番号19、去年のユニフォーム。ボールを持っていなくてもフィールドを縦横無尽に駆け抜け、ボールを持てば持ったでやはり駆けずり回る。
  ガラスの窓越しに聞こえる喚声に、千尋は、ふ、と息を吐く。
 きっとまた神坂は楽しそうな表情を浮かべているのだろう。
 瞼を閉じて、ゆっくりと横たわる。橙の格子模様の掛け蒲団を被って、もう一度眠った。

 ところが実際は、
「神坂が夜叉になってる……!」
「なんだよ夜叉って!」
「わかんないなら羅刹で良いよ!」
「羅刹は女だろうが!」
「じゃ、鬼!!」
「どれにしたって恐ぇよ!」
「こ、こっち来る!! カウンター! 皆、戻れ!!」
「来るな!」
「来るんじゃねぇよ、神坂!!」
「頼むからチームワークを考えてくれ、神坂!」
 校庭に響く喚声は悲鳴ばかりだった。それも、チームを問わず。
 原因は、わかりきっている。神坂だ。
(表情だけ見てりゃ笑顔なんだけど、あいつ相当キレてるよなぁ)
 まぁ、仕方ないか。
 教室から校庭の惨状を眺めていた森岡は、ひそやかな笑みをこぼす。教壇に立つベテランの英語教諭がそれに気付いて青筋を立てているとは思いもせずに。

 神坂がああもキレている原因は、昨日最後まで部活に出ていたサッカー部員なら皆知っている。大騒ぎだったのだ。
 何せ、怒鳴り込みならぬ叫び込みに来たのだから。

『芳樹ー!!』
 練習が終わり、皆が校庭の校門側から部室のある側へ、端から端へと50メートルの距離を雑談しながら歩いていると、突如その声は響いた。甲高い女子の声。叫び声と言うより、むしろ金切り声と言っても差し支えないような。
 ぶしつけに下の名前を呼び捨てられた神坂が、にこやかな表情を取り繕って声の主を見る。広丘学園中等部の制服のスカートを履いているからおそらく中等部の女子なのだろう。見覚えはなかった。呼び捨てられる謂れもない。
『……誰、アンタ』
『芳樹ってば冷たい! 仮にも彼女を捉まえて、《誰、アンタ》はないんじゃない?』
『アンタの勘違いじゃない? 俺、彼女いないし』
『いるじゃない、ここに』
『そもそも俺、アンタと話したことあったっけ』
 言葉を重ねるごとに深くなる笑みと裏腹に、どんどん冷たくなっていく声音に部員たちの足が止まる。怖いもの見たさ、というやつだ。遠巻きに眺めていると、なかよしカップルに見えないこともなかった。きっと傍目にはどちらも同種のにこやかな笑みを浮かべているようにしか見えないからだろう。
 胴の前で腕を組んだ神坂の顎からぽたり、汗が落ちた。
 待ってましたとばかりに神坂の目の前に立つ少女はオレンジを基調としたカラフルなスポーツタオルを差し出す。ヨカッタラドウゾ。使い古された陳腐な科白を、神坂は鼻で笑って見せた。
『誰かもわからないような奴に物を借りるのは御免だ』
 口角を上げてぼそりと呟くと、みるみるうちに少女の額に青筋が浮ぶ。どうやら地雷を踏んだらしいことに気付いたのか気付いていないのか、神坂は少女に、じゃぁ、とだけ投げかけて足を踏み出す。砂の潰れる音がした。
『中嶋さんがそんなに良いの? 神坂くんが中嶋さんに何をしたって、あの人、全然、歯牙にもかけてないどころか神坂くんのこと、眼中に無いじゃない!? 私だったらいつだって神坂くんのこと見てるのに、中嶋さんなんかよりも私の方がずっと神坂くんのこと好きなのに、私がいちばん神坂くんのことをわかってあげられるのに……!!』
 肩で息をしていた。いくらか暗くなった校庭で、ぐわんぐわんと少女の声が響く。神坂が千尋を好きだというのは周知の事実だ。教師にすら知られている。だから、振り向いた神坂が浮かべた冷たい表情は、想い人の名を明かされたことに対する怒りによるものではなかった。
 七月の、湿気をいくらか含んだ夕風が吹く。ひやりとした空気に、立ち止まって傍観者に徹していた部員達は肩をすくめてまた歩き出す。
『悪いけど、勝ち目の無い賭けは最初からしないんだ、俺は』
 少女のしゃくりあげる声と夕風を背に受けて。

(見てりゃ誰だってわかるだろうに)
 なぁ、と窓の外を見た森岡の頭で、景気の良い音がした。痛みと同級生達からの忍び笑いとに、森岡は顔を顰めた。溜め息をつくことを躊躇う自分を自嘲する。幸せならもう疾うにこの掌から逃げている。
「森岡くん、このページ、全部和訳して音読してもらっても良いかしら?」
 不自然なまでににこやかな英語教諭の声を右から左に聞き流して、森岡は教科書を持った。
(だから英語は嫌いなんだ)



風邪をひいたときに見る夢は、どうしてこうも暗いのだろう。

7


 起きてしまえばもうおぼろげにしか思い出せない夢にうなされて、叫びながら飛び起きた。ほんの少し前のことだと思っていたが、よくよく時計を見てみると、既に半周していた。動きだけでなく、時間感覚までもが鈍っているらしい。頭はすっきりと冴えているというのに。
 脇に挟んでいた体温計が音を立てる。
 この脱力してしまう音はどうにかならないものだろうかと思いながら表示を見る。もうすっかり平熱に戻っていた。
 安心するなり、ぐうとお腹が鳴った。腹時計は狂わなかったのかと思いながら時計をちらと見る。よく考えてみれば、いつもならこの時間帯には学食でお昼ご飯を食べているのだ。
 のろのろと起き出して、パジャマの上からジャージを羽織る。パジャマ一枚で歩き回るよりは、まだマシだろう。それに、温かい。
 短めの髪を首の辺りで一つに括って、千尋は部屋を出た。

 靴下を履いて廊下を歩く。誰もいない寮内は、しんと静まりかえって静かだ。
 無人の食堂を借り受ける許可は寮母から手に入れた。
 さて、何を作ろうか。

 結局、玉子粥を作った。本当は月見うどんの方が早く作れるからそちらを作るつもりでいたのだが、麺の置き場所がわからず作ることができなかったのだ。おかげでもう六限が始まってしまった。
 一人きりで食事をするのは、そういえば久しぶりだ。
 静かな食堂で一人、玉子粥を食べながら千尋は思う。ここに入学してからは、いつも誰かしらと一緒に食べていたから、小学校の頃は毎日のように一人で食事をしていたというのに、寂しいとすら思う。

「おい、中嶋!!」
 切羽詰ったような、抑えた声に呼ばれたのは、あと少しで食べ終わるかという頃だった。
 声変わりをまだ終えてない、いくらか甲高い声は、聞き慣れたそれだ。 念のために時計を見る。まだ六限は終わっていない。生徒は授業に出ている筈だ。けれど、たしかにその声は聞き慣れた声だった。
(サボったのか)
 片手を挙げて「ちょっと待って」と言い置いて、残りの玉子粥をかきこむ。使い終わった食器を流しに置いて水に浸けてから窓際に駆け寄ると、「俺より昼飯かよ」と毒づかれたので、冗談交じりに「実家に帰ります」と言ってみたら、見たこともない表情をされた。困っているのだろうとは思ったけれど、そんな表情を見るのは初めてだったので、こちらが戸惑ってしまう。
 いつもみたく俺様でいれば良いのに。心の中で呟いてみたけれど、きっと口に出しても神坂は気付かなかっただろう。何かに気を取られているように見えた。
「冗談だよ。朝から何も食べてなかったからお腹空いてただけ」
「熱は?」
「下がった。でも今日は部活でないから、まゆみちゃんに『ごめん』って伝えておいてくれる?」
 営業用スマイルを浮かべて言ってみる。神坂は、千尋が営業用スマイルを提供するたびに怒る――いつもなら。今日は不機嫌そうに黙り込んだきりだった。
 合わせた目を、ついと逸らされる。そんなに嫌なら来なければ良い。浮んだ思いの通りに、千尋は神坂に背を向けた。
「じゃぁ、また明日」
「待てよ」
「何?」
 振り向くなり、腕を掴まれる。そのまま腕を引っ張られて、視界が傾ぐ。
 目の前、息がかかるほどではないけれど、すぐ近くに迫った神坂の顔を見ると、熱でもあるのか、頬が赤い。二言三言話した程度で風邪は感染するものだったろうか。訝しげに眉を顰めた千尋に、神坂は言う。わざわざ腕を引いて千尋を引き寄せたと言うのに、目を合わせようともしない。
「お前、明日の朝練からは出ろよ、部活。お前がいないと調子狂うんだよ、俺は」
「まゆみちゃんがいるんだし、マネージャーがいなくなるわけじゃないのに困るようなこと、ある?」
 間髪入れずに返すなり、腕を掴む力がぐっと強くなる。
 心なしか、先程よりも近づいていた。
「黒田じゃ意味ないんだよ。俺は――……俺が好きなのは、お前だ」
 こんなときだけ顔を上げるのはズルい。条件反射で赤くなってしまった顔の言い訳に、もごもごと千尋は言う。
 チャイムの音が聞こえても、神坂が千尋の腕を放す様子はなかった。
 もしかして、返事を待っているのだろうか。
 不意に至った考えに、千尋は神坂を見る。軽く首を傾げた仕草は、そうだ、あれは、神坂が返事を待つときの仕草だ。神坂が返事を待っているのはわかった。けれど、返事と言っても何を言えば良いのかわからない。
 時計を見たのか、神坂の手が離れる。
 今言わなかったら、いつ言えば良いのだろう。
 皆目見当がつかなくて、片手を挙げて立ち去ろうとした神坂の背中に、千尋は問うた。
「ねぇ、『好き』ってどういう気持ちなの?」
 振り向いて、神坂はにやりと笑う。
 箱入り娘め。
 たしかにそう言って、そうして、

「変態!」
 千尋の罵りに、からからと笑ってみせて神坂は背を向けた。

『噛みつきたくなるような感じ、項とかに』  


後日談


「あの二人、何があったの?」
「知るか」
 そう、と返す不由美には、落胆した様子も何も見て取れない。一方、訊ねられた森岡は、不機嫌な様子を隠さずにいた。
 熱で臥せっていた千尋が生徒会室に顔を出すのは一週間ぶりだ。サッカー部のマネージャーをしているため、ただでさえ生徒会室に顔を出す機会が少ないせいだ。もうすっかり回復した、とは本人の言だが、まだたまに足元がふらついているのを、森岡は知っている。そして、もう一人。千尋と少し離れたところに、神坂が座っている。
 神坂と千尋の間に座る不由美の後ろで、森岡は小さく嘆息した。
 今日の練習を突然中止と言い出したのは、監督だった。時間が余ったからと三人でそろってここまで来たは良いものの、なんだか泣きたい気分になってしまうのはどうしてだろうと森岡はシャーペンを握りしめる。
「中嶋ー」
「……………………………………………………何」
 つまりは、このやり取りが原因だった。
 (もう俺やだ。泣きそう)
 以前に比べて、どこか、柔らかくなった千尋の声に、森岡は俯いた。