あなたの淋しい夜に魔法をかけよう
20111013
いつもと同じ着信音。
ディスプレイに表示される時間も、いつも通り。
ほんの1秒ほど鳴ったケータイは、すぐに静かになる。
いち、に、さん。
数え終わる頃に、もう一度ケータイが鳴った。
通話ボタンを押すと、残念そうな声が聞こえる。
『早いよ』
「一回目は取れてないですよ」
笑いながら答えれば、そうだけど、ともう一度残念そうな声。
日付が変わる頃に、一つ上の先輩から所謂ワン切りの電話がかかってくる。その習慣が始まったのは、つい先日まで付き合っていた彼氏と喧嘩をして、不安定になっていた頃だったと思う。
「先輩、明日朝早いんじゃないですか」
『そう。研究所行くから。……あれ、俺話したっけ』
「ううん。……あのですね、先輩。お忘れのようですが、私、同期が先輩と同じ研究室にいましてね」
『あぁ……忘れてた。まぁ、じゃぁまたな』
「はい。おやすみなさい、先輩」
おやすみ、と返す声が聞こえてからみっつ数えて終話ボタンを押す。不思議なことに、いつもこちらが終話ボタンを押すまでは繋がったままなのだ。
そんなことされると私、期待しちゃいますよ。
声に出したことはない。伝えたこともない。
今はただ、このままの関係が続けばいいのに、と思っている。
その指先から世界が生まれる
20111014
『はい。おやすみなさい、先輩』
「おやすみ」
指だけは置くものの押せないままの終話ボタンは、そのうち向こうに通話を切られて意味を成さなくなる。いつものことだ。
電話越しの彼女の声はいつ聞いても柔らかくて、ささくれだった夜に電話をかけると、それだけで眠れるようになるのだ。
配属された研究室は、幸いなことに22時前後には帰ることができるところだった。帰って、晩御飯を済ませて、風呂を浴びれば大体日付が変わる頃。
疲れた夜にばかり電話をかけていること、気づいているのかもしれない。
そう思いながら、掛け布団を捲る。
目を閉じて一番始めに浮かんだのは、出会った頃の彼女だった。まだ今よりもふっくらとしていて、明るいばかりの笑顔をいつも浮かべていた頃。
『初めまして——先輩?』
聞いたことのない弾き方だ。ふと惹かれて入ったそこで、彼女に出会った。
『いや、そいつうちのサークルじゃないしあんま気にしなくていいよ。——で、どうしたんだよ、今日は』
『あぁ——いや、特に用はないんだ』
そう? 首を傾げる同期のことは、視界の片隅にいる、程度の認識だったと思う。
ただ彼女の音を聞きたくて、そればかりが頭の大部分を占めていたので、正直なところ、どうしてその日の夜にそのサークルの飲み会に出たのかさえ覚えてはいないのだ。
そのくらい、彼女の音に惹かれていた。
知らない世界を垣間見たから。
いちにのさんで、目を開け
20111014
「いや、そいつうちのサークルじゃないしあんま気にしなくていいよ。——で、どうしたんだよ、今日は」
「あぁ——いや、特に用はないんだ」
どこかそわそわしている、その様子を見ているのは、なんだかとても不思議な感覚だった。
彼女たちが入部して3ヶ月と少し。
彼女の視線の先を知っている。けれど、友人はきっと自分のことにも気づかず、そのうち先に彼女の視線の先に気づいてしまうのだろう。本人はきっと気づいていないだろうけれど、今までだって彼はそうだった。そんな風に、ずっと一人のまま。きっと、今度も。
やりきれないねぇ。
表情に出してしまっていたのか、はたまた声を漏らしてしまっていたのか。少し離れたところでギターのチューニングをいじっていた同期から、怪訝な視線を向けられる。ゆるゆると首を振って何事もないことを主張すると、スティックを握りなおした。
他の面々も準備が整ったことを確認して、カウントを始める。いちにのさんで曲を始めるこの瞬間が好きだ。
ずっと縛り付けられたように彼女を見るばかりの彼を見て、ほんの少し、強いアタックで音を鳴らす。
いちにのさんで、さぁ、目を開け。芽生えたばかりのその想いを、殺さぬように。
わたしに出来ないこともある side. H
20111019
ひどくやつれた様子の彼女と行き会ったのは、出会って二年を過ぎた頃。
それまでのように挨拶を交わしてそれだけですれ違う、そのはずだった。あのときどうして咄嗟に彼女の腕を取ったのか、今でもわからない。ただ、腕を取って彼女をランチに誘って、それでも彼女の雰囲気がそれまでのようには緩まなかったことだけは覚えている。
そんな風に行き会うたびに、学食や、ときどきは学外の店で食事に誘って、そのうち少しずつ、少しずつ、彼女の雰囲気が和らいできたのだった。
「先輩」
ぽつりと呟いた声は、それまで聞いたことのない響きを持っていて、心のどこかが小さく軋む音がした。
両手でスープマグを持つ彼女はもうとっくに飲み干したはずのスープを見つめたまま、顔を上げる気配はない。
きっと聞くことになるのだ。彼女の理由を。
ふとそう思って、それから初めて、彼女がやつれていた理由を聞くのは初めてだと気づく。思えばあれから何度も一緒に食事をしていて、夜に二人きりで外食をして彼女を送って行ったこともあるのに、それでも初めてなのだった。
彼女が聞かないように、それでも心の中では大きく溜息を吐く。
先輩、失格だ。
「どうした?」
「先輩は、私みたいな愚図のこと、どう思いますか、私、八方美人ですか、色目使ってますか、誰にでも好き放題してほしそうな目してますか弾けないフレーズばっかり何日も練習する私はできそこないなんでしょうかご飯も美味しく作れなくて、私、人間失格なんでしょうか掃除もうまくできないしおしゃれじゃないしブスだし太ってるし甘いもの大好きだし運動嫌いだし一緒に歩くの気持ち悪いって言われたしだらしないって言わーー」
聞いていられなくて、立ち上がる。ファミレスの4人掛け席に案内されていたおかげで、彼女の隣のスペースは、まだ余裕がある。
静かに座って、そうして、彼女の頭に手をのせる。
「俺はね。俺は君のこと、すごく素敵だと思うんだよ。みんなのことちゃんと見てて、気配りができる。努力だってしてる。料理や掃除やおしゃれだって、君が思ってるよりずっと、うまくできてると思う。運動は俺も嫌いだし、好きじゃなくたっていいよ。外見だってそう。俺は痩せて化粧の臭いしかしない人よりも、君の方が好きだし、……それは好みの問題でしょ。君がそんなに自分を否定し続けるような,そんな必要なんて,どこにもない」
わっとぶちまけて,肩で息をする。彼女は,泣き出していた。
あいつなんかやめて,俺にしろよ。君じゃない人と並んで歩いてるところを見かけたばかりだ。
そう言いたくなるのを抑えて,コップを手にとった。水を飲んでいると,彼女の声が耳に届いた。
「ありがとう……ございます。樋山先輩」
彼女たちが別れたと聞いたのは,それから三ヵ月後だった。
わたしに出来ないこともある side. S
20121110
同じバンドに入って,ギターを教えてもらうようになった。付き合うようになるのは,ただの時間の問題と誰もが思っていた。私もそれが当然のように思えたので,どうするかと問われたとき,何も迷うことなく頷いたのだった。
それが,二年前。
一年生だった私も三年生になって,サークルの幹部になった。一年生たちのバンドも学園祭を控えて練習に熱が入っている。かく言う私も,同期と一つ年下の後輩と,五人で組んだコピーバンドで学園祭に出ることになっている。
今日は学園祭の一週間前。目の前には,二年付き合った先輩。ここは大学にそこそこ近いファミレス。
先輩の隣には,とてもきれいな,女の人。
「紹介するわ。同期の七瀬」
「こんばんは。飯田くんとは学科で一緒なの」
「はじめまして。……後輩の佐倉です」
後輩,と名乗る前に躊躇ったのを察したのか,七瀬さんがふわりと笑う。柔らかい笑みのようなのに,どうしてだろう,不安になるような笑みだった。
ウエイトレスさんに注文を伝えると,私たちの間に沈黙が落ちる。少し前まではその沈黙が心地よいと思えていたのに,今はもう,この場にいたくないと思う。
つまりはそういうことなのだろう。
「それで,今日はどうしてこのメンバーで食事を?」
「鍵を,返そうと思って」
ちゃりん,と音がして,テーブルに見慣れた鍵が置かれる。
ほら,やっぱり。
あまりにもわかりやすい展開に,涙は出なかった。
「お食事をお持ちしました」
ウエイトレスさんの明るい声がして,鍵を手に取った。
おかえりなさい,私の鍵。
「今までありがとうございました」
お店を出てから,窓ガラス越しに先輩たちを見た。
先輩は,私の見たことのない表情をしていた。
お代はあなたの笑顔で十分
20150621
就職して,そろそろ一年。学生の頃に始まった奇妙な習慣は相も変わらず続いていて,今夜もまた,着信音が鳴る。
学生の頃は本当にワン切りの電話しかかかってきていなかったが,いつからか——そう,たぶん,彼が就職した頃から——もう少しばかり長く,着信音が鳴るようになった。すぐに出られる状態にあっても三つ数えてから電話をとっているけれども,その間に鳴り止むことがなくなったことに,淡いと言うには強い期待を抱き始めている己を佐倉は知っている。
「こんばんは,先輩」
「こんばんは。おつかれさま,佐倉」
二,三ばかりお互いに近況を報告して,それだけ。今日もそうなのだろうか。だとしたら,少し——寂しい。
そう思った佐倉の心境を察していたのか,それともはたまた別の理由があるのか,樋山は,ところで,と改めた。
「来月,どこか空いてる日,あるか? 久しぶりに,会わないか」
「いいですね。どこに行きましょう?」
「そうだな——」
行き先を決め,電話を切る。心地よい興奮に包まれたまま,佐倉は眠りについた。
「元気そうだな」
「先輩こそ」
お元気そうで,何よりです。
電話越しの声だけではわからなかった,樋山の学生時代よりも落ち着いた姿に焦りにも似た戸惑いを覚え,佐倉は息を吐く。
予約をしていたで,改めて再開の挨拶を交わす。夜と言うには早い時間に予約していたせいか,まだ客は少なかった。
グラスを持った左手にも,箸を持つ右手にも金属の輝きがないのをちらりと確認し,何もないことに安心しながら,浅ましさを胸中で恥じる。そんな佐倉の胸中を知ってか知らずか,樋山は終始柔らかな笑みを浮かべていた。
久しぶりの話に盛り上がるうちに,テーブル横から声がかかった。
「すみません,お飲物のラストオーダーですが,ご注文はよろしいでしょうか?」
歓送迎会シーズンによる混雑のため,2時間制限と言われていたことをその言葉で思い出し,二人で顔を見合わせる。頷いて,樋山が店員に答えた。
「お冷や二つとお勘定お願いします」
店員が頷いて去るのを見送り,樋山は佐倉に向き直る。就職して一年足らず。まだ学生時代に見たままの佐倉に近いことに,安堵しながら。
「そういえばさ,いま付き合ってる人とかいないのか」
「残念ながら」
苦笑いを浮かべて答える佐倉に,ほう,と息を吐く。
店員が持ってきた水を一息に飲み干し,樋山は,そうか,それなら,と,言葉を繋ぐ。にぎやかな筈の居酒屋の音が,遠ざかる。
「付き合ってみないか,俺と。俺は佐倉の笑顔を一番近くで見ていたい」
この手をとってくれ,と差し出した手に,熱が重なる。
耳に戻ってきた喧噪のなか,二人は立ち上がり,店を出た。