希望のふわふわ




1


目覚まし時計が鳴り響くなか、滋野はごろりと寝返りをうった。否、うとうとした。
床に落ちた衝撃に、思わず目を開ける。
(あー……研究室に泊まったんだっけか)
ちょうど3人並ぶ配置で机が置かれているこの研究室では、滋野以外の面々が泊まることはない。お陰さまで、いつも両隣の二人の椅子を拝借し、3脚並べてベッド替わりにしている。寝心地がいいとは言えないが、床に寝るよりはマシだろうと思いきや、この様だ。
カーテン越しの空は明るい。目覚ましはたしか5時に設定していた筈だが、今は夏。美しい朝焼けを拝むならばもう少し早くに起きろということなのだろう。
(講義は2限だけだから……飯食って作業して講義出て、帰って寝よう……)
今日の流れを考えつつ、鞄を手にとる。財布とスマホを入れ、カードキーを手にとれば、出掛ける準備は万端だ。
(窓は寝る前に閉めた。冷房オフ、電気オフ)
誰もいないので、無言で指差し確認を行う。
研究棟の廊下はまだ暗い。突き当たりの窓から漏れる光を背に、滋野は階段に向かった。


2


研究棟を出れば、コンビニまでは5分もかからない。理学部はキャンパスの出入口近くに位置する研究棟が多いが、工学部はある程度の距離を要する建物が多い。だから工学部の建物前には自転車が溢れている……と専らの噂だ。実際には理学部の建物前も似たり寄ったりな状態だが、人は見たいものだけを見る、ということなのだろう。
ひとりごちて、コンビニの自動ドアを通れば、客の一人から視線を向けられたように感じた。視線を追えば、雑誌の立ち読み客がこちらを見てにかりと笑む。
「はよ、滋野」
「岡田。……お前、朝からまた随分と元気だな……」
「徹夜だからな!」
「あれ、昨日は中嶌のとこには泊まらなかったのか」
「泊まろうと思ったら、あいつ既に寝てやがった……!」
徹夜明けのテンションの高さを振り撒きながら読みさしの雑誌を棚に戻し、岡田は滋野に歩み寄った。棚の場所と雑誌を見なかったことにして、滋野は弁当売り場を示す。
補充のタイミングと合わなかったためだろう、今朝のコンビニは品揃えが芳しくない。選択肢の少ない中から多少悩みつつおにぎりをふたつとれば、岡田は既に弁当を選び追え、デザートを物色していた。
(元気だな……)
岡田とはサークルで知り合った。二人とも院に進学した今、サークルには時折顔を出す程度だが、お互い大学から離れた自宅に帰りそこねることがままあるせいか、このコンビニでの遭遇頻度は上がるばかりだ。
ペットボトルのコーナーに戻って水をとってから缶コーヒーを手に、滋野はレジへ向かう。すれ違いざまにレジへ向かうと告げれば、じゃ俺も、と岡田もついてきた。


3


 コンビニの外に置かれていた岡田の自転車の籠にレジ袋を置き、コーヒーを一口飲む。飛び抜けて美味しいわけではないし、飲めばすぐに目が覚める、というものではないが、なんとなく、朝だな、という気分にはなった。
数が多いうえにあたためまで頼んでいた岡田は、なかなか姿を見せない。コンビニの前の道路は元々交通量がないこともあって、静かだった。
「おっ待たせぇい!」
「先戻ろうかと思った」
「滋野はそんなことしないって、俺知ってる!」
テンションの高さを保ったままの岡田にさよか、と返し、滋野は籠から袋を出した。岡田はどうやらレジ袋を腕に提げたまま、自転車を押すつもりらしい。
飲みさしの缶コーヒーを手に、隣に並ぶ。コンビニで一緒になった朝は、大抵こうしてそれぞれの研究室に帰るのだ。
「今日さー、部室で綿あめ作ろうって言ってんだけど、滋野も来ない?」
「何時から?」
「午後かなー。学部が今日は午前授業の曜日らしいから」
「俺らもだろ」
思わずのツッコミに、そだっけと惚けた応えを返され、滋野は溜め息を溢した。
勢いで生きるこの同期とほぼ毎日一緒にいて、中嶌は疲れたりしないのだろうか。ふとここにはいないもう一人の同期のことを思い浮かべ、頭を振る。疲れるのであれば、岡田の定宿になどならないだろう。つまりは、そういうことなのだ。恐らく。
裏門の境を踏み越えれば、滋野の帰る研究棟はもうすぐそこだ。ちらりと岡田を見れば、にこにこと笑みを返される。
「2限に授業あるから、昼飯買ってから行くわ」
「おう! じゃ、またあとでな!」
後ろ手に手を振って返し、滋野は研究棟に入った。


4


 研究室に戻ればもう6時をまわっていて,スマホでスケジュールを確認しつつ,2限るまでに終わらせる予定の作業を思い浮かべる。元々は,溜め込んでいたデータ整理だったのだ。少なくとも,昨晩の続きはあと4時間弱もあれば終わるだろう。そうであれば朝ご飯くらいはゆっくり食べたい。
机の上を片づけ,買ってきた朝食を置く。いただきます,と手を合わせて,滋野はおにぎりのパッケージを開けた。

2限が終わり,約束通り昼食を持って滋野は部室を訪れた。ドアノブに手をかける直前,唐突に開いたドアに,強かに頭を打つ。角が当たらなかったのは幸いと思いつつも,反射的に声が出てしまった。
「っ痛って……」
「あっすいません,しげ先輩」
「いや,——今日,もしかして結構人多い?」
「みたいですね。いちろー先輩が片っ端から声をかけてたみたいで」
言外に,しげ先輩もですかと問われ,頷いて滋野は頭を抱えた。岡田は本当に勢いのままに行動しているらしい。中嶌には申し訳ないが,もう少しストッパーと機能してもらえないものだろうかと詮無いことを思いながら,入れ替わりに部室に入る。
記憶にあるよりも雑然とした様子になっているのは,恐らく岡田が元凶なのだろう。中央にこたつが鎮座しているのは記憶にあるままだが,こたつ布団をはがされ,天板に段ボール箱が鎮座している。壁際に無造作に放られたこたつ布団のおかげで雑誌を積んでいた山が崩れている箇所も見受けられて,なかなか後片付けが大変そうだなと思う。
(後片付け,俺もやるんだよな,きっと……)
思い至ってしまった結末には触れないことにして,岡田に声をかけた。


5


 「俺、昼食っててもいいかー?」
「いいともー! って、滋野じゃん」
もうそんな時間かー、と笑う岡田は、徹夜明けということを差し引いて余りあるほどに元気だ。その元気で片付けられた、もとい、壁際に寄せられた荷物の隙間、ちらほらとどちらかといえば困った風情で立つ後輩たちに、ごめんと内心謝りつつ、滋野は腰を下ろした。
少しずつマイナーチェンジが続くパリッとした海苔のコンビニおにぎりもそれはそれで好きだが、滋野は購買で売られているおにぎりが好きだ。弁当と同じく、食堂開店前に食堂で作られているらしいと噂のそのおにぎりは、海苔はしっとり、大きさもほどよく、所謂母の味そのものなのだ。面倒だからと研究室に泊まることもままある一人暮らしの身としては、なかなか嬉しいものがある。
そんな好物を頬張りつつ眺めれば、電動ドリルが持ち出されている。何をするやらと思えば、空き缶に穴を開けているようだった。小さな間隔でいくつも開けると、ひっくり返して底にも穴をひとつ。
テンションが高いばかりかと思えば、作業が始まれば持ち前の集中力であっという間に作業を進めていく。学部時代に知り合った当初から毎度毎度この集中力には驚かされてばかりだが、それが岡田の長所なのだろう。本人に言ったことはないが、魅せられてしまうのだ。現に、困った風情だった後輩たちの空気も変わっていた。
あっという間に準備を終えた岡田が、即席の綿あめ機を回し始める。溶けたザラメ液が糸になって、次々に缶から飛び出してくる。ふわふわとまとめられた綿あめが光を受けて、きらきらしていた。


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