※「素直になれない君へ5のお題」から5年前の話です

だから勉強しようと思ったんだ




「葉月兄、楽しい?」
 2人しかいない明るい部屋の中で葉月に抱き締められていた夙子(あさこ)が問う。
 最近やっと馴染んできた中学校の制服は、葉月とは違う学校のそれだ。葉月の両親の意向で、夙子は葉月とは別の中学校に通っている。葉月の両親は夙子のことを厭うても嫌ってもいないようだけれど、葉月と夙子をあまり近付けたがらない。その結果だ。
(帰宅部にしといたおかげで家に帰ればこうやってべたべたできるけど)
 ベッドに座って膝の間に夙子を抱え込んだ葉月は思う。去年の今頃より少し膨らんだ胸に、たとえ掠る程度でも触れてしまうのはためらわれて、幼さの残る肩を抱いていた。
 ずっと黙っているから息苦しいのだろうかと葉月が不安に思ったちょうどそのときだった。
 夙子の問い掛けに、葉月は目をパチクリさせる。
 夙子を抱き締めるのは楽しいとか好きだとか、葉月の知っている言葉では表せない行為だった。恋愛感情からでもなく、シスコンでもなく、敢えて言うならば習慣のような、当たり前の行為。
「何が」
「私みたいな凹凸のない体を抱き締めて楽しいの?」
 同い年の女の子に比べれば平べったい胸をぺたぺたと触りながら、夙子が言う。
 敢えて言うなら普通の男子は「楽しい」のではなく「気持ち良い」のではないだろうかと思ったけれど、言ってもまだ夙子にはわからないだろうと高を括って葉月は少し唸ってみせる。
 嘘を吐いたり誤魔化したりするのは苦手ではない。
「凹凸あると思うけど。それに小っさいときからじゃん。どうかしたの?」
「そう」
「納得したんだ?」
 いつもの夙子ならもう少し食い下がるのに。
 夙子の肩を軽く叩いて葉月は首を傾げる。これは何か妙なことを吹き込まれたか。たしか夙子は3日後に宿泊学習を控えていたように思う。
「男の人は凸凹した体が好きだから気をつけなさいねーって保健の先生に言われたの。葉月兄もそうなのかーって思って」
 先生、それは変質者対策であって宿泊学習に向けた話ではないと思うんですが!
 喉まででかかった言葉をごくりと飲み込んで、はぁと溜め息を吐く。最近溜め息が増えてしまったのは夙子が中学生になったからに違いないと決め付けて、また夙子の肩をぽかすか叩いた。
 痛いなぁと葉月の手を軽く叩いて、夙子は頭を後ろに傾ける。逆さに向かい合った夙子に苦笑いをしてみせて、葉月は言葉を選ぶ。ついでに夙子の額をおさえてそのまま前を向かせる。とてもじゃないが向かい合っていては気恥ずかしくて言えないと思った。
「……間違っちゃないけどそれはちょっと違うんじゃないかな、夙子」
「どんな風に?」
「凸凹してなくてもそれが自分の好きな子だったらやっぱり好きだし触れたいと思うし抱き締めたくもなるよ。女の子だってそうなんじゃないかな」
「そんなもん?」
「うん」
 あぁ、やっぱり夙子にはまだわからなかったか。
 かすかな失望とともに葉月は頷く。
「じゃぁどうして私なの? 本命いるならこんなことしちゃ駄目でしょ」
 ……どうやら夙子は思ったより成長していたらしい。たしかにこんなこと、「好き」の「す」の字もないときにはわからなかったけれど。
 そこまで考えて葉月は息を飲む。もしかして夙子にも好きな人がいるのだろうか。
 ぐわんぐわんと頭の中で反響する言葉に、頭の内側から崩れていってしまうような錯覚に陥る。
「いるけど問題無いよ」
 平静を装って言ってみたけれど、声が歪んでしまったような気がした。
 夙子に好きな人がいたって良いだろうに。そう思うのと同じ次元で、夙子に好かれた誰かを羨んでいる。
 けれどそれが夙子に対する恋愛感情でないのはなんとなくわかっていた。その感情に名前をつけられたら、そのときは。
「どうしてそう言い切れるの?」
「さぁ? 根拠はないけど。……そのうちどうしてかわかったら教えてあげるよ」
「約束ね」
 葉月の手を振り払って身体ごと振り向いた夙子が葉月の小指と己の小指を絡めて笑う。
 わかったよと言いながら、葉月は夙子を抱き締める腕に力をこめた。
 この感情に名前をつけられたら、そのときはもう一度、夙子が嫌がるくらい抱き締めようと思いながら。



素直になれない君へ5のお題

配布元様




「なぁ」
「うん?」
「抱き締めても良いか?」
「良いけど、別に」
 あっさり承諾したことが間違いだったのかどうか、夙子(あさこ)は知らない。

天邪鬼

 放課後の教室に好きな人と2人きりで、しかも抱き締められていたりした日には、あまりのお約束っぷりに有り難みが薄れてしまうものなのかと、抱き締められて夙子は思う。
 夙子を抱き締めたっきり黙りこくっているのは夙子のクラスメートだ。クラスメートと言っても、講座が同じだけで、部室が隣同士でもなければ話すことはなかっただろう。それにしたって放課後の教室で抱き合うような仲になった記憶は勿論、告白した記憶もなかった。ちなみにフルネームはよく知らない。普段から「まーくん」としか呼んでいなかったのでフルネームを呼んだことはないし、よく考えてみればフルネームで呼ばれているのを聞いたこともなかった。
「まーくん、女の子に飢えてるの?」
「阿呆か、お前は」
「だよねぇ。中身がオタクでも顔は小綺麗だもんねぇ」
「もうやだ、俺……」
「なんで?」
 まーくんの目の前でギャルゲーをやってしまったおかげで、まーくんにお前を女とは認めないとまで言わしめた夙子を抱き締めて黙りこくっているくらいだから、夙子はてっきりまーくんが女の子に飢えているのだと思ったのだ。夙子がまーくんを恋愛対象として見ていようがいまいが、まーくんが夙子を恋愛対象として見ることがないのは、ほぼ絶対だから。
 しかしどうやら女の子に飢えているのではないらしい。飢えているのではないらしいと思って夙子はほんの少し安心したけれど、まーくんの顔があれば中身を隠しさえすればいくらでも女の子を引っ掛けられるのだからそれは当たり前かとすぐさま落胆した。
 無意識に夙子が伸ばした指先に、まーくんはびくりと肩を震わせる。顎から耳にかけてのラインを辿ったかと思うと、不意に、指先が髪をまさぐるように蠢く。
 これはゴーサインですか!? とまーくんが夙子の顎に手をかけようとした瞬間、
「髪傷んでるのどうにかしたら? ワックスでガチガチに固めたりするからだよ、これ」
 そう言うなり髪をまさぐるような夙子の指先はすぐに離れて、また夙子はまーくんの腕の中で動きを止める。
「……余計なお世話だ」
 溜め息混じりにまーくんが言うと、抱き締めるのは私だけにしてほしいと言う代わりに、耳にかかった息がくすぐったいと夙子は不平を漏らした。

素直になれずに後悔するのはいつもの事

「ただいまー」
「お帰り、夙子。元気ないね、どうしたの」
 ただいま一浪中の葉月(♂)に迎えられ、夙子は顔を歪める。随分と昔から使い古した年上の従兄に対するSOSサインだ。
「父さんたちって今日出張だっけ?」
「久しぶりに一緒に寝る?」
「うん」
 夙子は葉月の家で育てられた。両親の話を聞いたことはないが、葉月と直接の血の繋がりがないことは知っていた。叔父夫婦が葉月と夙子にある一定以上の距離をおかせたがっているのも知っているから、SOSサインを出しても滅多に一緒には寝ない。
 布団の中で戯れ合っているのを見つかりでもしたら叔父夫婦の寿命が縮むだろう。肌を重ねはしないけれど、お互いの弱点は嫌というほど知り尽くしているから、結果的に服は意味を為さなくなってしまうのだ。
「さすがにこの時期は寒いね」
 肌蹴てしまったパジャマを戻しながら、夙子は言う。両手を投げ出して葉月を向いて、完全に寝る態勢だ。
「だったら一緒に寝るなんて言うなよなー」
 表情は穏やかな笑みを浮かべたまま拗ねた様子で言い、葉月は夙子のパジャマの下にそろりと手を伸ばす。
 気付きもしない夙子の脇腹をくすぐると、夙子が飛び上がる。
「うひゃひゃひゃひゃひゃひゃ、く、くすぐったいってば、葉月兄!」
 反撃できないようにと葉月が両腕を緩く掴むと、足をぽかすか蹴りながら夙子が抗議する。
 ぱっと両手を離すと葉月は満面の笑みを浮かべた。
「あったかくなったろ?」
「何か違うよねこれ!?」
「違わない違わない。さー、良い子は寝ましょうねー」
「私もう18だよ」
「俺は19だ」
 そう言うと、夙子の頭を軽く二、三度叩いて葉月は笑う。
「夙子ー、駄目だよ後悔するならがっちり掴んでおかなきゃ。俺たちもうちょいしたら別々に暮らすんだからもう今みたいに一緒に寝たりとかできないんだよ?」
 知ってると答えながら、夙子は意識を手放した。

本当はうれしいけど

「また女の子に飢えてるの? ポイ捨てし過ぎだよ、まーくん」
「違ぇよ」
 自習だからとプリントをもらうなりすぐさま一番後ろの夙子の隣の男子は姿を消した。周りを見渡せばどこも似たような状況で、残っているのは男子が約半分と、元から少なかった女子が全員で、結局講座の半数は姿を消してしまったようだった。
 まーくんの隣の席の男子も姿を消してしまったらしい。退屈だからか夙子の隣に来たまーくんに、夙子はプリントを押しつける。
「……なんだよ」
「私今から寝るから」
「はぁっ!?」
「あとで答え見せて」
「無茶言うな、お前、俺の方がテストの点数悪いの知ってるだろうが」
「でも私の方が授業は不真面目だよ」
「そういう問題かよ……」
「そういう問題だよ。じゃぁね、おやすみ」
 まーくんから顔を背けて、夙子は机に突っ伏す。まーくんに寝顔を見られたりしたら後で何を言われるやら。あぁ、恐ろしい。
 そう思いながらも、机の下の夙子の右手はまーくんの服の裾をしっかりと握り締めていた、らしい。らしいと言うのは授業が終わってまーくんに起こされたときに袖の皺が顔についていることと一緒に散々からかわれたからだ。
「お前の右手が俺の服の裾をひっしと掴んでるもんだから俺は1時間ず~っと真面目に問題集解いてたわけ。真面目チャンだろ?」
「似合わないねー、ていうか私のプリントやっぱり白紙なんだね」
「そっちかよ!!」
「まー、行かねぇの? 次の授業」
 気がつけば周りはほぼ無人。そういえば次は教室移動があったのだっけ。
 だったら早く荷物をまとめなければと腰を上げた夙子の隣で、まーくんは首を横に振っていた。
「先行ってろ」
 じゃぁ、と立ち去る面々は何故か誰もがニヤニヤと笑っている。目が合うとウィンクされて、ますます夙子は訳がわからなくなった。
 とっくに荷物をまとめ終えたらしいまーくんは、席を動く様子がない。
「先行くよ?」
「あかん」
 唐突にまーくんの敬愛するダウンタウンの松本を真似た関西弁を発し、まーくんは夙子の服の裾を掴む。
 チャイムが鳴った。それでもこの教室には誰も入ってくる様子がなくて、夙子は胸をなで下ろす。どう言い繕えば良いのかわからなかったのだ。
 昨日と同じように誰もいない教室で抱き締められて、夙子はゆるゆると息を吐いた。
「まーくん、やっぱり女の子に飢えてるんだ」
 わざとからかうような様子で言えば、なんとでも言えと投げやりな返事が溜め息と一緒に吐き出された。

…解れよ、ばか

「まーくん、それくすぐったいからやだ」
 意図した訳ではなく夙子の耳元に寄せられた唇に、そこから吐き出される息に、声に、夙子は不平を漏らす。
 悪い、と言いながらもまーくんはそのまま動こうとしない。
 昨日の夙子は動転しているばかりでまるで気付かなかったけれど、まーくんの髪は良い匂いがする。頬に触れた髪はくすぐったいけれど、傷んだ髪のパサついた感触が存外に気持ち良いことにも夙子は気がついた。
 傷んだ髪を一筋手に取ると、まーくんが身じろぎして、夙子の髪の半分くらいの長さしかないまーくんの髪は簡単に夙子の手をすり抜けた。すり抜けた髪がさらさらと夙子の目の前で揺れる。思わずパン食い競争のパンよろしくぱくりと咥えそうになって、慌てて夙子は顔を逸らす。ワックスでガチガチに固められた髪なんて、有毒物質そのものだ。
 顔を逸らすとまーくんの肩が目に入った。夙子の肩に比べると骨張っていて、逞しそうな肩だ。肩の描くラインがほぼ直角に見えて、夙子は息を飲む。
 やっぱりまーくんってオタクなんだ……。
 筋肉があまり目立たず、ただ痩せたその肩に、がっくりと夙子は額をつける。夙子より骨張っているのも当たり前だ。きっと夙子よりまーくんの方が引っ越しのときに役に立たないだろう。
 前触れもなく後頭部に手を添えられて、夙子は身を固くする。何もしないから俺を見るなと背を叩かれて、目を瞑った。目を開けていれば、見たくなってしまうから。
「言っとくけどなぁ、俺は別に女の子に飢えたりとかそういうんじゃねぇよ」
「じゃぁどうして私にこういうことするの」
 目を瞑って額を肩に押しつけたまま、夙子は問う。
 まーくんの言いたいことを最後まで聞きたい気持ちと途中で遮って逃げ出してしまいたい気持ちが半々だ。
 それでも夙子は額をまーくんの肩に押しつけたまま、動こうとしない。かすかな期待とほぼ1対1の不安と好奇心が夙子の動きを止めていた。
「ずっと前から、アサにこうしたかった」
 ずっとまえから。
 それはどれだけの期間を基準にした「ずっと」なのだろう。夙子とまーくんが出会ってからそろそろ2年になるけれど、まさかその2年間の初めから今まで、という訳はないだろうし。
 首を捻り出した夙子に、まーくんは怒ったような声音でいつからかは教えない、と言った。恥ずかしいらしい。
「ねぇ、どうして私なの?」
 教えてくれるだろうか。
 一か八かで夙子が訊ねると、一瞬、夙子を抱き締める腕が強張って、すぐに力を失った。
「……解れよ、ばか」
 力を失った腕はそのまま夙子から離れて、夙子の頭を肩から離すとまーくんは立ち上がった。

小さな意思表示

 立ち上がったまーくんを、ひどくゆっくりと開いた目でぼんやりと夙子は眺める。
 まーくんの表情は、怒ってはいないけれど、どこか悲しそうだ。どこか悲しそうな表情のまま、まーくんは口の端を歪めて片手を挙げる。
 そうか、帰るのか。
 返すように夙子がのろのろと挙げた片手は、けれどすぐに力を失って夙子の脇にだらりと垂れる。
 困ったように眉を曲げて、まーくんは夙子に背を向けた。
 いってしまう。
 どうしてかは知らないけれど、それがまるで今生の別れのように思えてしまって、夙子は立ち上がった。立ち上がってもまーくんに夙子の手は届かない。
 当たり前だ。まーくんは夙子とは反対側の列を歩いている。
 どうしようかと迷っている間に、まーくんは教卓のすぐそばまで行ってしまったようだった。
 小走りに教卓のそばまで行って、それでもまーくんは近付かない。アキレスの論証だ。
 絶望的だと気持ちは沈んだけれど、夙子の手は、まーくんに。
「……アサ?」
 まーくんの服の裾を掴むと、まーくんが夙子の手を服から外しながら振り向いた。服から外した手をそのまま自分の手と絡めて、まーくんは嬉しそうな表情を浮べた。
「アサ、知ってる? アサみたいな子のことをツンデレって言うんだよ」
「私がつよきす? それ、明らかに褒め言葉じゃないよね」
 文句を言いながらも、夙子はまーくんに絡められた手を離そうとはしない。抱き寄せても抵抗のない夙子の嫌がる耳元で、まーくんはゆるゆると息を吐いた。
「それ、くすぐったいからやだって言ったじゃん」
「アサ、耳赤いよ」
 夙子の文句には答えず、まーくんは身体を離すと夙子を連れて教室に戻った。
「帰るんじゃなかったの?」
「だってアサの荷物、置きっ放しだろ?」
「……忘れてた」
「ばかだなぁ、アサは」
「まーくんはオタクだよね」
 通学鞄代わりのリュックを持ち上げて背負いながらさらりと言った夙子に、まーくんは意地の悪い笑みを浮べる。
 まーくんのいつもと違う様子に気付いた様子もなく顔を上げた夙子は、まーくんに、ぶつかる、と言われて咄嗟に目を瞑った。目を瞑ったけれど、唇から離れる気配のない、予想していたより柔らかい感触に、夙子は薄く目を開ける。まーくんと目が合って、慌てて夙子は目を瞑った。
 そうか、これがキスなのか。

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